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ジェフ・バックリィ( Jeff Buckley )



アルバムリスト
歌手の紹介


ジェフ・バックリィ(Jeff Buckley, 1966年11月17日 - 1997年5月29日)は、アメリカのシンガーソングライター。カリフォルニア州アナハイム出身。水泳中に30歳の若さで溺死。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第39位、「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第10位。


経歴
幼少時代

父親は1960年代に活躍していた歌手、ティム・バックリィ。8歳の頃に一度だけ会って以降は、麻薬の過剰摂取によるティムの死去まで会うことは無かった。母親は、マリー・グーバート。誕生時、ジェフリー・スコット・バックリィと名付けられたが、後に母親がロン・ムーアヘッドと再婚し(この結婚生活は、2年間しか続かなかった)、スコッティ・ムーアヘッドとして育てられる。父親の死後、バックリィ姓を継ぐことを決め、更に元々ミドルネームであった『スコット』から本来の『ジェフ』を名乗るようになり、『ジェフ・バックリィ』となった。
学生時代〜卒業後

母親がピアニスト兼チェリストであったため、「音楽的には非常に恵まれた環境にあった」とバックリィは述懐している。初めて買ったアルバムはレッド・ツェッペリンの『フィジカル・グラフィティ』で、キッスなども幼少の頃のお気に入りであった。高校に入る頃には、プログレッシブ・ロックやジャズ、フュージョンを愛好する様になり、高校ではジャズバンドに所属していたという。

高校卒業後、ハリウッドに移住し、音楽学校『ミュージシャンズ・インスティテュート(MI)』に入学。1年の課程を修了した。その後、バックリィはホテルで働きながら、様々なバンドでプレイすることとなるものの、芽は出ず、また後に知られることになる美声も、このときの彼にはせいぜいがコーラス位しか歌う機会がなく、認知されることはなかった。
下積み時代〜『グレース』

1990年にチャンスを求めてニューヨーク入りするも、思ったほどの機会は与えられず、その年のうちにロサンゼルスへと帰ってくる。帰省後、彼はレコード会社に自分を直接売り込むため、父親の元マネージャーに連絡を取り、デモテープを作成した。『バビロン・ダンジョン・セッションズ』と名づけられた彼の初めてのデモテープは、当初脚光を浴びることはなかった。

その後、ニューヨークのティム・バックリィのトリビュート・コンサートに「ティム・バックリィの息子」としてコンサートに出演。その日のコンサートは、彼のキャリアにとって大きな一歩となる。結果として、彼に成功するきっかけを与えたのが、幼少の頃一度会っただけの、葬式にも出席しなかった父親であったことは大いなる皮肉であった。

後にバックリィは、クラブなどでライブ活動を展開、徐々にその名を浸透させてゆく。1992年、ついにコロムビア・レコードと契約、『Live at Sin-e』を発表する。リリースは1993年の12月であった。

1993年の夏から『グレース』の製作を開始、1994年9月に発表となる。当初の売れ行きはさほど芳しくはなかったが、ジミー・ペイジやロバート・プラント、エルトン・ジョンなど各界著名人から高評価を受け、その後押しを受けてセールスも伸びていった。

1995年1月には、来日公演を行った。
死去

その美しい歌声から「天使の歌声」と称され、また類まれなギターの演奏テクニックも持っていたが、1997年にミシシッピ川で泳いでいた際に溺死。セカンド・アルバムの製作中であった。溺れた当時は酒を飲んではいたが、ドラッグを使用した形跡や遺書等は無く、事故死であろうとされている。遺体は、5日後に発見された。

後に、彼が双極性障害を罹患していたことを親しい者に洩らしていたことがわかり、自殺説も囁かれた。

スタジオ・アルバムは1作だけだが、死後に未発表曲・ライブ音源などが多数発表された。
作品
オリジナル・アルバム

グレース (Grace)/1994年

死後発表されたアルバム

素描 (Sketches for My Sweetheart the Drunk)/1998年
即興〜Mystery White Boy Tour〜 (Mystery White Boy)/2000年
ライヴ・イン・フランス (Live at L'Olympia)/2001年
ライヴ・アット'Sin-e'(Legacy Edition) (Live at 'Sin-e' (Legacy Edition))/2003年